日々音感

楽器練習・レッスンのメモ、アドリブ、音楽理論_音階・和声・旋法、絶対音感・相対音感、移動ド唱法・固定ド唱法、ソルフェージュなど徒然に。Sax, Flute, Clarinet, compose, arrangement

「絶対音感:固定ド」 「相対音感:移動ド」 それぞれ互いに必須で分けられない事柄?

最初に、、
世界は広いわけで、音楽を愛好する人の数だけ頭の中の整理方法は様々で佳いと思います。
違いを互いに認め合って、コミュニケイションの際に思い遣りを持つだけでだいぶ世の中の居心地は佳くなるのだと思います。
 
さて本題。
絶対音感相対音感、まずそれらは対義語では無いと思ってます。
が、それについて詳しくは後にするとして、
不可分なことと思われがちな
 ・相対音階:固定ド唱法
 ・絶対音感:移動ド唱法

いずれも互いに必須な構成要素では無いと思ってますって話から始めます。
 
___目次___
<音感、音高感覚、音程感覚、○○唱法>
絶対音感とその表現法>
<固定ド唱法>
<音名と階名>
<移動ド唱法>
<どっちが楽珍?>
絶対音感相対音感、固定ドと移動ド、それぞれ対義語?>
*******
 
<音感、音高感覚、音程感覚、○○唱法>
音感。音を感知する能力、ではありませんよね。
音色を感知する?厳密に言い始めるとその要素も含まないわけではないけど、、一般的に考えれば西洋音楽について言う限りは、音高あるいは音程を感知する能力のことでしょう。
 
 音高感覚_聞こえた音がどんな高さなのかを知覚できる能力のことですね。
 音程感覚_2つの音の高さがどんな距離感かを知覚できる能力のことですね。

○○ド唱法_音高ラベリングの方法。
感知した音の高さをなにかしらの方法で名付ける方式のことです。
固定ド唱法と移動ド唱法が有名ですね。
世界は広いので、その2つ以上に様々な方式はあります。
が、ここでは取り敢えずその2つを論点とします。
 
 
絶対音感とその表現法>
聞こえた1つの音高が「アレと一致する」と記憶のモノサシで判断できるのを絶対音感と呼びますよね。
「アレ」は多くの場合ドレミという名前(モノサシに書かれた目盛のような)で呼ばれますが、そうでない場合もあります。
「アノ曲のイントロの最初の音と一緒」とか「アノ生活雑音と同じ」といった表され方もあるわけです。
 
絶対音感で感知した音高をドレミで表せるというのは、音高とドレミ呼称の関係を知ってるからこそですね。
感覚だけでなく、それを表す為の道具も備わって初めて「今聞こえた音はドレミでいうと○」と応えられるわけ。
 
道具の様態も実は様々で、ドレミという言葉は出なくても
・ピアノの鍵盤のどこと一致するか
を応えられる場合もある。
もちろんピアノに限らず他の楽器でもそれは有り得ます。
 
ややこしいのが移調譜表現の絶対音感。これもけっこう居ます。
子供の頃からトランペットなどの inBb移調楽器(とそれ用の移調譜)に親しんだ人だと、ピアノの実音譜で言う固定ドレミよりも長2度上の固定ドレミで応えたりします。
(「固定」とは、楽曲のキーがナニであるに依らず、5線譜の下1線に乗った玉をドと呼ぶ、ということ)

ってことはホルンなら inFって人も居るわけです。実際に会ったことあります。
実音固定ド表現の絶対音感の人と話す時には翻訳してから伝えることになります。
 
いずれにせよそういった絶対音感は、幼少時より楽器に触れてたり、そこで扱う音高と楽器操作の関係をドレミを使って整理するといった体験あるいは教育を経て「こそ」身に付くと一般的に言われてます。

ところが、幼少時と言われるより後になってから、つまり小中学生の頃からの体験によっても、更には40歳台以降でも絶対音感を身に付けたという例に会うことがあります。
 
近年ようやく脳科学の分野でも、脳のどこでナニが起きてそうなってるのか、という研究が進み「身に付く仕組み」の解明は興味深いです。
けど、本論ではそこには突っ込まないことにします。
 
ともあれ、絶対音感と固定ド唱法がまるで一体のもののように扱われがちですが、とりあえず、実音固定ド唱法が、絶対音感成立の必須条件ではないと思えるのはそういうことです。
 
 
<固定ド唱法>
固定ド唱法とは、五線譜の下1線に乗った玉を、どんなキーでもドと呼ぶというラベリング方式です。
イタリア、フランスなどでは古来大多数がその方式なのは、ラテン的合理性ゆえなのでしょうか。その点は興味深く要取材ポイントです。
 
音名(CDEFG…)と階名(ドレミ…)が同義なので、それら文化圏では
「ド長調、レ短調」といった記述も見られるわけですね。

和声、音階、和声進行、旋律などを構成する音環境が、どの音高を中心に構成されているか(楽曲全体でなく、ある一瞬としても)といった情報は「さておき」、とにかく「見た目と呼称の一致」を図る方式です。
 
さて、では移動ド唱法とはどういうラベリング方式なのでしょうか?

の前に、音高ラベリングの呼称スタイルには「音名」と「階名」があるのは何故かをなるたけ簡潔に書きますね。
 
 
<音名と階名>
音名とは
「五線譜の何処に玉があるか、を絶対的に示す名付け方」です。
「五線の上で○に玉があれば△と呼ぶ」
といった方法。
つまり、同じ音名を呼んでも実音譜と移調譜では実際に鳴る音高は変わります。
あくまでも五線のどこに玉があるか、を表すのが音名です。
五線に対して絶対的な音高呼称と言えます。

階名とは
長音階という形の階段の地面(1段目とする)をド、2段目をレ、3段目をミ…と名付け、1段目の高さが変われば(=キーが変われば)、階段の形を保ちつつ他の音達の音高も並行してゾロリと変わる」
という呼称スタイルです。
音名に対して言えば、相対的な音高呼称と言えるでしょう。

なぜその2つが必要だったのでしょうか。

たとえば「ドレミの歌」。
絶対音感を持たない人が歌うと、必ずしもハ長調では歌いません。
ですが、どんなキーで歌っても、その構成音の音程関係(各音の高さの隔たりの相対関係)が「長調」という階段の形を保つかぎり、ドレミの歌に聞こえます。

その曲を有名にしたジュリー・アンドリュースさんは変ロ長調(Bb Major)で歌ってます。が、絶対音感と固定ドがくっついてる人で無ければ何も気にせずドレミの歌として愉しめます。
ちなみに、
inBbの絶対音感固定ドの人だと「普通にドレミの歌じゃん」となるわけでヤヤコシイ(^_^;

ドレミの歌である限り、どのキー(1段目が実際にはナンの音だかに関わらず)であれ長音階に基づいて構成された曲ではあります。
だからあの歌詞は変わらずに歌えます。

つまり、あの歌詞は相対的な音高呼称であるところのドレミ(=階名)に基づいて作詞されたわけです。

ところが、何人かでドレミの歌を一緒に歌おうとすると、全員が絶対音感者でない限り「始めの音はコレで行きましょう」という約束あるいは声の大きい人の音高に合わせて、同じ高さで歌うわけです。
その時にその「コレ」を指し示す時に使う道具が「音名」なのです。

ジュリーと同じ高さで歌いましょうと思ったら、絶対音感者なら実音Bbから歌えるでしょうがそうでない人でも、楽器で実音Bbを鳴らしてココカラと約束すればかなりの確率で Bb Major で合唱できます。

といったことが、音名と階名、2種類の音高呼称スタイルの在る意味なのでしょう。
 
 
<移動ド唱法>
さて、実はここまでに、移動ド唱法とは?の説明もだいぶ含まれてます。

西洋音楽の1オクターブには12の半音があります。
その全てがドにレにミに…成り得ます。

つまり、五線譜の何処にあるとドと呼ぶかが12通りあるのが移動ド唱法です。
実は、12半音の間の微妙な音高の全てもドにレにミに…成り得ます。
が、取り敢えず情報整理の便利の為に、12半音として扱うことにします。

絶対音感を持たない人が、ドレミを使ってメロディを歌えるという場合、自動的にそれは移動ド唱法の状態と言わざるを得ません。
私自身がそうですので確かかと。
だって、自分の歌ってるキーの主音=ドがABC…のナニだか判らないんですから。

ですが、それがAなのかBなのか…を気にし出すと途端に話は面倒くさくなります。
五線と実際の音高との相互関係の把握という知識の勉強が必要になります。

ですが、それ以前に大切な事…

五線に対して12通りのドレミ(相対的な)が在るということを知らなくとも、ドレミ(相対的な)でメロディを歌える人は居るってことです。

ドレミの歌の後半で、階名で歌うシーンがありますよね。
あれを再現できる=ドレミで歌えてるってことです。

それは、五線とドレミの関係を知らなくても相対音感は成立してるということです。
そうした人が
「五線に書かれたメロディを書かれた通りに歌いたい」とか
「聞こえたものをドレミでは理解してるが聞こえた通りの高さで五線に記録したい」
と望んだときに初めて、移動ド唱法を学ぼう、となります。
 
 
<どっちが楽珍?>
そうすると、主音って?長調って?短調って?旋法って?和声って?和声進行って?
といった類のことから学ぶことになります。
面倒くさいです。
その点たしかに固定ドは楽です。

もちろん固定ドでもそういった諸々をその呼称法でマネージメントして学べます。
全くなんの問題もありません。

ですが実は移動ド唱法を身に付けると、その学びの時間が12分の1で済みます。
その点では楽珍です。

勿論、転調とか無調的音楽に如何に対応するかには相応の学びが必要なんですけどね。
どっちが楽で、どっちを選ぶかは人それぞれでよいわけです。

ですが、絶対音感と固定ドをくっつけて身に付けてる人でない限り、特に大人になってから楽譜の視唱力を身に付けられる可能性が高いというか早いのは移動ド唱法と思われます。

子供のうちは理屈っぽい勉強は退屈かもしれませんが、大人なら数理的理屈から始めて、感覚との合体に至ろうとする勉強はかえってモチベイションを保ちやすいと思われるので。
そう思うのは長年の音楽教室講師経験からです。

さて、絶対音感を持たない人でもメロディを記憶して歌えるのは何故でしょうか?
それは音高群の相対的関係を記憶できるからです。
その関係性を12段階に知覚できるようにし、それぞれに名付けをできれば
相対音感と移動ド唱法の合体」
は成立します。

ところが、
その相対的音高知覚は、固定ドで整理しようとすると混乱をきたします。

譜面を見なければ歌えるドレミの歌でも、もしそれがト長調で書かれた譜面があったとすると、その譜面を見た途端に「アレ?ドなのにソ?」となるからです。

移動ド唱法を身に付けていれば「この譜面はト長調で書かれてるからト音がドなのね」と納得して歌えます。
それが移動ド唱法の効用です。
 
 
絶対音感相対音感、固定ドと移動ド、それぞれ対義語?>
さて、固定ドの人は移動ドを身に付けられるのでしょうか。
はい、学ぶ時間を厭わねば身に付けられます。

逆に、移動ドの人はその能力のうちの12分の1として既に固定ドを扱える「可能性」を持っています。
移調とか旋法に達者なくらい移動ドのスキルを持っていれば固定ド唱法でも歌えます。

絶対音感と固定ドを組み合わせて身に付けた人でも移動ド唱法は身に付くでしょうか?
はい、少し苦労はすると思いますが不可能ではないと思います。

ですが、それは「唱法」に拘った場合の答えで、本当に大切なのは、
絶対音感な人でも相対音感は身に付く
ってことなのかと。

相対音感とはどういうことでしょうか。
西洋音楽を構成する和声・音階は、ザックリ言ってしまえば自然界の「楽音(音高を明瞭に認識しやすく、西洋音楽の演奏に使うのに相応しいとされるタイプの音。対義語は噪音)」が産まれ持つ「倍音」に依って立ちます。
ハーモニーの美しさとか、不協和・協和の織りなしから起こる出来事を感覚することは、倍音の無意識的あるいは意識的感知の仕業と筆者は思ってます。

つまり、倍音列に基づく諸音程を感じ取ることが、音楽に含まれる諸音程の振る舞いの感知に重要と思われるのです。
それが正しいならば、
絶対音感を持った人でも、そこに興味を持つ限り「音程感」は育つはずです。

「はず」と言うのは、、絶対音感者の中には、音高感は確からしいのに音程感は不確かそうな人に出会うことがあるからです。
とは言え、絶対音感を持つ人の多くは幼少時からと限らず、音楽体験の深い人が多いわけで、相対音感もしっかりと持った人が多いのは当然と言えるでしょう。

そこで実は問題なのは、せっかくの絶対音感も、その音高感覚と音程感覚の関係が一体化した整理に至りにくいのは、組み合わさった固定ド唱法のお陰なんだろうな、と思わざるを得ない例によく出会うからです。
移動ドの人なら起こしにくい調号の書き間違えなど見る度にそう感じます。

なのでね、絶対音感はとっても便利なものだから、
その教育を早期にするのは否定しないけど、音高ラベリングのスタイルとして
固定ドとではなく音名・階名の使い分けと合体させるといいのにね、って思うわけです。

とはいえ世界は広いわけで、音楽を愛好する人の数だけ方法は様々で佳いと思います。
違いを互いに認め合って、コミュニケイションの際に思い遣りを持つだけでだいぶ世の中の居心地は佳くなるのだと思います。

赤ん坊の産声が440hzって、どうして信じられるの?

赤ん坊の産声が世界共通で 440hz って説、
わりと皆信じやすいが統計的エヴィデンスってどっかに出てる?

標準ピッチはヨーロッパでも右往左往してきましたよね
現在に至る最終的結論は1926年のアメリカ楽器産業界の都合かと
それ以降何度か確認されてきたけどいずれも商業優先の話なんでないかな?

↓参考:ウィキペディア「A440」
 

ja.wikipedia.org

 

短調でも主音はド、バークリー的 階名唱法の謎を解く

「バークレイ式?」
階名唱法(ソルミゼイション)の1スタイルをそう呼ぶのを見かける。
先ず「バークリー」ですよ。
学長の名前が Eriot Lee Bark さんだったから。
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短調でも主音をドと呼ぶ」
これについて「そう習ったからそうなのだ」って説明を見かける。
大切なのは「何故そうなのか」「如何に使うか」かと。
 
この手の12音式階名唱法はハンガリーコダーイ先生がルーツかと。
その後色んな人が色んな読み仮名を提唱してきた。
その内の1つでしかないしバークリーの発明でもないはず。
とはいえ、ドレミ…の元々の姿を極力とどめてる点で秀逸と思う。
 
短調でも…は確かに特徴的。
何故そうなのか。
発端はブルーズと理解してます。
 
ブルーズ系の音楽家、とくにギタリストと話すと
「キーはなに?」「G!」
「え?メイジャー?マイナー?」「Gだってばよ!」
って会話はありがち。
 
なぜかと言えば、
メイジャーもマイナーも観点には無く「G」だからだ。
そこに見えるのは「主音はG」で、そこを中心に、西洋の機能和声的価値観で言えばメイジャーとマイナーを旋律も和声も「行き来する」って世界だから。
 
ジャズでは、アドリブの素材とする楽曲がメイジャーであろうが、ブルーズのスイッチが入った途端に、ブルーズの世界の流儀で事が進む。
そこでは、メイジャー・マイナーいずれであっても「主音はド」とすると煩雑を避けられます。
 
モードの時代になると様々な旋法を行き来するわけで、中にはメイジャーともマイナーとも特定しにくい音階もある。
そうすると尚更に「主音はド」方式が有用となる。
 
そういった必要の基に「短調でも主音はド」は成り立ったと思われる。
 
なので、シンプルな機能和声的音楽(=長調あるいは短調のいずれかを明瞭に特定できる)の場合は「短調の主音はラ」方式を選んでもいいわけ。使う人がそれを便利と思う限り。
ただし、あの学校では、それだと不便だからソルフェージュの授業では「主音はとにかくド」と言ってたのだろうな。
 
何故なら「使い分け」を理解させるには、学生達に
・機能和声的
・旋法的
の理解をさせねばならないから。
それだと、1年生の最初から理論とソルフェを同時スタートさせるにあたって、理論系の先生に大変な負担を強いるわけで。
アメリカ的合理性なんだろな。

 

 

Isn't she lovely? でのアドリブレッスン3週目

アドリブのレッスンめも。
Isn't she lovely? での3週目。
普通にコードスケール使った話しつつ、
ブルーノート野郎に豹変してのドラマ作り手法の話とか(笑
 

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クラリネットのプラスティックリード、レジェールのヨーロピアンタイプ

プラスチックリード、こりゃツカエルわい。
レジェールのヨーロピアンタイプ。
先日先輩から奨められて気になってた。
ヤフオクにて貯まったTポイントで即ゲット。
ん〜楽器店でちゃんと選べばもっとイイのあるかも。
サックスでずっとペケって思ってたけどクラのは実用域と実感♪
 
サックスで沢山の種類のを試してきたけど、
どれも、なんか倍音のどこかが欠けてるな、とか
CDみたく「なんキロヘルツ以上がバッサリ削除されてる」
とか感じてた。
結局長くは使わないのばかり。
 
でもコレなら本番でも使えるかも。
足りなく感じるとこはなく(まだ初心者だからか?)
音圧もどの音域でも、まったりと満遍なく増大。
ん〜、、テッペンのG(inBb記譜で)より上がまだ、アンブシュアをキチンと操作しないと
グシャって音が潰れちゃうけど、、練習、、かな?
 

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相対音感の諸症状

・音楽聴いて愉しめる → 保菌?
・歌える → 潜伏期
・ドレミの歌、歌詞変えずにどのキーでも歌える → 移動ド発症期
絶対音感なくても楽譜読み書き困らない → 高熱期
・複雑な転調も旋法もOK → 重症
・たった数音でも壮大なオケを果てしなく妄想 → 末期なので諦めて一升瓶抱えてすぐ御来院ください(笑
 
 
つまりね「これぞ相対音感」っていうたった1つの形は無くて、人それぞれ様々な様態や症状の重さ(笑)があるってこと。
それは絶対音感でも同様でね。
なのに世の中では「これぞvsこれぞ」って話をしがち。
統計的研究をする時にもこういう観点を踏まえてデータ取りするともっと甲斐あるのにな、って思うわけです。